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2024/09/11
【海軍史】第二次世界大戦の勃発

ドイツによるポーランド侵攻の初期段階で海上戦が果たした役割とは。

執筆: Clare Fitzgerald (War History Online)

部分的に海中に沈んでいるポーランドの機雷敷設艦グルィフ (ORP Gryf)。
Unknown Author / Ostatnia reduta, R. Witkowski / Wikimedia Commons / Public Domain

1939 年 9 月に発生したドイツのポーランド侵攻について語られるとき、多くの場合はドイツ軍による地上侵攻作戦に目が向けられがちです。しかしながら、実際は海上や空中で何が起こっていたかに注目することも重要です。侵攻作戦の序盤において、ドイツ海軍と空軍は、ドイツの勝利を確実にする上で大きな役割を果たしていました。実は第二次世界大戦における最初の砲撃も、戦艦から放たれたものだったのです。

この記事では、侵攻初期における海軍の活用について検証します。ポーランド軍が海岸線を防衛する様子や、ドイツ軍がバルト海でより高度な艦艇を使用して航路を確保する様子などをご紹介していきます。

この記事は、War History Online の協力のもと企画されたシリーズ記事の第一弾となります。2011 年に設立された War History Online は幅広い範囲を網羅したコンテンツによって、軍事史に興味を持つ世界中の人々にとって有用な情報源となっています。

ポーランド侵攻の準備段階

1938 年、オーストリアのクーフシュタイン国境を越えるドイツ軍部隊。
Photo Credit: CaiusCobbe / Wikimedia Commons CC BY-SA 4.0

ドイツのポーランド侵攻に至る数年間、ヨーロッパはドイツの侵略的な拡張政策と外交政策を目の当たりにしていました。アドルフ・ヒトラーと国民社会主義ドイツ労働者党 (ナチ党) が先導したこれらの政策は、1936 年のラインラント再占領に始まり、1938 年のオーストリア併合、1939 年のチェコスロバキアからのズデーテン地方併合へと続いていきます。これらは、ヨーロッパにおけるドイツの支配を確立するための広範な戦略の一環でした。

そして 1938 年にはポーランド侵攻の前兆ともいえる動きが起こります。ミュンヘン協定が締結され、ドイツがチェコスロバキアの一部を併合することになりました。これはイギリスとフランスによる宥和政策とみなされ、ヒトラーはさらなる領土拡張に自信を深めていきます。ドイツがポーランドに目を向けたときには、すでに大きな対立の舞台が整っていました。ドイツとソビエト連邦の間で結ばれたモロトフ=リッベントロップ協定 (=独ソ不可侵条約) は、この東欧の大国をさらなる孤立に追い込みます。

そして 1939 年 9 月 1 日、ドイツがポーランドに対して電撃戦を開始し、第二次世界大戦が勃発しました。この侵攻は迅速かつ残忍なもので、地上部隊、空襲、海上戦力の組み合わせによって行われました。ドイツ海軍は特にバルト海において重要な役割を果たし、海上の重要な航路や港を制圧しようとする動きを見せました。

"Peking, Peking, Peking"

1939 年、Peking 作戦遂行中のポーランド駆逐艦ブウィスカヴィツァ (ORP Błyskawica) から見た駆逐艦ブルザ (Burza) とグロム (Grom) の様子。
Anonymous-Unknown / Wielkie dni małej floty, Jerzy Pertek / Wikimedia Commons / Public Domain

Peking 作戦は、ドイツによる侵攻直前にポーランド海軍が実行した作戦です。地域の緊張が高まる中、政府は最新鋭の駆逐艦をドイツ軍による鹵獲や破壊から避けるため、イギリスに避難させることを決定しました。ポーランド海軍はドイツ海軍に対して大幅に劣勢を強いられており、この計画は必要に迫られて考案されたものでした。

1939 年 8 月 29 日、"Peking, Peking, Peking" の合図が送信され、ついに艦艇の避難が開始されます。ポーランドの 3 隻の駆逐艦、ブルザ、ブウィスカヴィツァ、グロムが、Roman Stankiewicz 少佐の指揮の下、バルト海から出航しました。

この航海は非常に危険なもので、ドイツの海軍や空軍が哨戒中の海域を航行しなければなりませんでした。それでも、イギリス海軍の援助を受けながら、各艦は 9 月 1 日の夕方、ドイツの侵攻が始まったその日に無事エディンバラに到着することができました。

ドイツ海軍はポーランド侵攻にどのような役割を果たしたのか。

1939 年、ポーランド侵攻初日にヴェステルプラッテを攻撃するドイツ戦艦シュレスヴィヒ=ホルシュタイン (SMS Schleswig-Holstein)。
Unknown Author / Apoloniusz Zawilski, Bitwy Polskiego Września / Wikimedia Commons / Public Domain

ドイツ海軍はポーランド侵攻において、バルト海における制海権を確保し、沿岸での地上作戦を支援する役割を担っていました。主な任務は港の封鎖、補給線の妨害、そして進軍するドイツ陸軍に艦砲射撃による支援を行うことでした。これらの海上作戦は、空軍と連携することで最大限の効果を発揮するように調整されていました。

また、ドイツ海軍に与えられた重要な任務の一つは、ポーランドの海上戦力を無力化し、重要な海上航路を確保することでした。この目標を達成するため、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦が投入され、迅速かつ圧倒的な海上攻撃が行われました。この攻撃によってポーランド海軍は壊滅し、ドイツの補給線が確保されることとなりました。

1939 年 9 月 1 ~ 7 日、ヴェステルプラッテの戦い

1939 年、ドイツによるポーランド侵攻初日に砲撃を行うドイツ戦艦シュレスヴィヒ=ホルシュタイン。
Associated Press Photographer / Imperial War Museums / Wikimedia Commons / Public Domain

ドイツのポーランド侵攻における最初の戦闘は、ヴェステルプラッテの戦いでした。自由都市ダンツィヒ (現在のグダニスク) にあるヴェステルプラッテ半島のポーランド軍輸送基地は、当時の重要な戦略拠点の一つです。Henryk Sucharski 少佐が率いる守備隊は、ドイツ軍の攻撃に半日の間持ちこたえるという任務を負っていましたが、結局は 7 日もの間、抵抗を続けました。

この戦いは 1939 年 9 月 1 日、ドイツの戦艦シュレスヴィヒ=ホルシュタインによる砲撃で始まりました。ポーランド軍の守備隊は、兵力と火力の面で圧倒的な劣勢だったにもかかわらず、激しく抵抗しました。正規兵とダンツィヒ警察で組織されたドイツ軍部隊は、何度も攻撃を仕掛けましたが、そのたびに撃退されました。

ポーランド軍の守備隊は塹壕やバンカー、要塞化された拠点を駆使して陣地を守り抜くことに成功します。彼らの持久戦はドイツ軍の大規模な戦力を引きつけ、ポーランドの勇気と決意の象徴となりました。そして 9 月 7 日、物資が尽き、甚大な被害を受けた守備隊は最終的に降伏しました。

1939 年 9 月 1 日、ダンツィヒ湾の戦い

1939 年、ダンツィヒ湾の戦いで損傷を受けた機雷敷設艦グルィフ。
Unknown Author / Ostatnia reduta, R. Witkowski / Wikimedia Commons / Public Domain

1939 年 9 月 1 日には、ダンツィヒ湾の戦いが発生します。この戦いはドイツのポーランド侵攻初期における重要な海戦のひとつでした。ポーランド海軍は、ドイツ海軍の動きを妨害しながら、沿岸を上陸作戦から守るという任務を果たすべく、ドイツ空軍との間で一連の小規模な戦闘を繰り広げました。

ポーランド海軍は、機雷敷設艦グルィフ、数隻のより小型の掃海艦、2 隻の砲艦で構成されており、ドイツ軍との圧倒的な戦力差に直面することになります。ポーランド海軍は勇敢に戦いましたが、ドイツ空軍の急降下爆撃機ユンカース Ju 87B シュトゥーカの攻撃により大きな損傷を受けました。損傷を受けた艦艇のうちの 1 隻がグルィフでした。ドイツ軍の機銃掃射によって指揮官の Stefan Kwiatkowski 中佐が戦死し、他にも 29 名が犠牲となりました。

この戦いによって、ドイツ海軍のダンツィヒ湾への進入を阻止するために計画されていた、ポーランドの機雷敷設作戦「ルルカ作戦」は中止に追い込まれることとなります。目標こそ達成されなかったものの、この戦いではポーランド軍の強い抵抗の意志が示されることとなりました。

初期の侵攻後、数週間で何が起こったのでしょうか?

1939年、ポーランド侵攻の終結後、ドイツとソ連の軍関係者が握手している様子。
Unknown War Correspondent of TASS / Krasnaya Zvezda / Wikimedia Commons / Public Domain

数週間のうちに、ポーランドの防衛網は侵攻してきたドイツ軍によって圧倒されました。しかし、この侵攻はドイツだけによるものではなく、ソ連も大きな役割を果たしました。1939 年 9 月 17 日に赤軍がポーランド東部に侵攻したことに伴い、ポーランドの運命はさらに決定的なものとなりました。敵軍は急速に国の防衛網を突破し、最終的にポーランドは占領・分割されました。

侵攻後の数年間、ポーランド人たちは占領者による残虐な扱いを受けました。ドイツ占領地では、政治的エリート、学者、政権に対する脅威とみなされた者は処刑され、ユダヤ人住民はゲットーに押し込まれた後、強制収容所に送られました。ソ連支配下のポーランド人たちも同様に残虐な扱いを受け、定期的に処刑が行われ、ポーランド文化は「ソビエト化」の名の下に抑圧されました。